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ポスト・バブルな反応としてのPenelopes

 あのバブル時代のことを考えているとまたまた芋づる式に色々と思い出してしまった。しつこいやっちゃな・・・そう思われるのも覚悟で、また書いてみる。深夜に色々思い出すのはいけないなと、反省しつつ。


 全く異常としか言い様のなかったあのバブル時代に抱いた怒り。これは今でも決して忘れないし、忘れないようにもしている。それは、その後の20年でこの国のエエ加減さ、危うさを身に染みて感じ、そうしないといけないことを改めて心に刻み付けたからでもある。まぁこれは突然爆発してしまう癇癪玉のようなもので、深夜に思い出すと本当に始末が悪い。それでも、前回書いたように、あの時代は今の日本と地続きであり、現代日本のダメさ加減の原点なのだということは、どうしても強調しておきたい。あの時代をちゃんと見ておかないと、今後何度でも同じ事が繰り返されると思うからで。


 ただ、あの当時のことで特に思い出すのは、バブル寸前の80年代前半から半ばのことだ。もしあの頃にもう少し何とかなっていたら・・・そう思えてならないからだ。当時高校生で、しかもいまNew Waveのことを書いたりしているから、余計に色々と記憶を手繰り寄せようとしてしまうのかも知れないけれど。


 高校生当時、幼いアタマで色々な本を読み、考えたり感じたりしていたのは、右肩上がりの経済成長が終わりを告げ(しかし国民的なメンタリティーの基本線は依然としてこのままだったが)、本格的な高度消費社会が到来しようとするなか、日本人は社会全体としての目標を見失ってしまってるんじゃないかということだった。アメリカに追いつけ追い越せで、経済大国にまでのぼりつめてしまったこの当時、日本人全体が迷っている・・・それは思春期の少年でも見抜けるものだった。当時の曖昧でふわふわした、どこか甘ったるい空気というのは、そういう気分を反映したものだった。今になって思えば、だからこそそれを無意識に感じ取っている若者のあいだでは、質の差別化、差異のゲームとでもいうべきものが流行っていたのだろう。ネアカとかネクラとかね(笑)。まあ、こういう質的な差異の流動化が日本の80年代のひとつの潮流だったのだろうと思う。それはある程度は評価はするけれど、当時は表面的には受け入れてるフリはしていたが、嫌だったな、ホント。一部の特権的な立場の人達がメディアを使ってやっているのがいかにも、だったし、所詮閉ざされた空間でしか通じないのがとにかくくだらない、と思っていたからだ。何より許し難かったのは、そういうことに対してさえ無知で鈍感な同級生達で、だからこそ、能天気な歌謡曲なんかよりは、コステロやウェラーの怒り、パートリッジの視点の方が遥かに共感でき信頼をおけるもので、だからNew Waveにどんどん傾斜して行った訳だ。とはいえ、そんなものでさえ、それ以前の世代のモーレツ社員ぶりや、安保闘争の時代よりは一歩進んだ、豊かさゆえのものだったことは事実で、今となっては評価すべきものだったのかも知れないけれど。


 ただ私自身は、個人的事情から、もっともっと強烈に過去に引っ張られていた。それは、何も過去の日本国の物語に向かったとかではなく、あくまで私的なもので、個人的な事情に対する大変動物的な反応でもあった。とにかく、高校生だった81,2年頃は、どこかいつも混乱していて、ゆえにいつも過去を手繰り寄せようとしていたのだ。当時の私が無意識に感じていた、あの混乱の源泉は何だったんだろう。分かってもらえない悲しみ? まあこれは、十代なら誰でもそうだろう。だけど、それだけではなかった。輝ける未来への浮かれた喧噪の向こうにある今の消失への、うっすらとした恐怖か。まぁこれも普通かな。当時の日本全体は、豊かになったとはいえ、まだほどほどの豊かさを、慣れぬままぎこちなく享受している程度だったように思う。こんなもの、いつまで続くんだろうかと。けれど、もしかしたら、他の家はもっと明るかったのかも知れない。我が家の状況は当時の日本の大手企業に勤める人達の大半のそれとは全く逆だった。日本が豊かさを謳歌しつつあるなかで、父が勤めていた会社は今にも消滅する危機にあった。倒産するときかされた時は大ショックで、ただただ唖然呆然としていたのだが、親や学校の手前、そう見られないように必死だった。成績も良くなければ、ますますいけないと、無理に自分を追い込んでいた。私の家庭をこの、明治時代に創業し100年続いた飲料水メーカーと切り離して考えることは出来ない。父で三代続けての奉職で、最終的には父がその最期を看取ることとなるのだが、英国人社長の放蕩経営が原因で、あっけなくその終わりを迎えることになってしまった訳だ。それはある会社員の家庭に大きな怒りと緊張を招いていた。ふざけるなと。何故なんだと。そんな、誰にもぶつけられない思いは、兄も私も弟も、ただひたすら抑え込むしかなかった。学校に対する怒りも当時頂点に達していて、しかしこんなことで余計に家に混乱を持ち込めないと、学校を辞めたいことも言い出せなかった。結局その重圧が、過去への郷愁と、音楽というはけ口に流れていたのだった。その混乱した感情が、いかに自分の身体と心に大きなつめあとを残していたかに気付いたのは、恥ずかしながら、実は割と最近のことである。


 さらに言えば、私が社会にでる90年頃を思い出せば、バブルは終焉を迎えつつあり、明るい未来は何一つ到来していなかった。その後長期に渡る、「失われた10年」と言われた未曾有の平成大不況の足音がひたひたと迫りつつあった頃だ。心の原風景は、あらかた消えてなくなっていた。当時をさらに思い出すと、社会全体にはバブルへの反省もなく、強いものだけがのさばって行くシステムがどんどん強化されて行った訳で(その頂点があのコイズミ時代である)、さらなる無力感や怒りが沈澱して行ったのだが、じっくりその底部に残っていた思いについては考える時間もなかった。だからただひたすら、その時間の早さ、無常さへの悔しさがいつも意識の底に渦巻いていたように思う。消さないでくれ、大事なものはちゃんと残しておいてくれ、という思いが、いつもどこかにあった気がする。それでなくても、成長するたびに何かが消えて行く、そんな、古き良きものの消滅が幼少期という原風景(その当時を知らないという方は当時の映画やTV番組、漫画を見ていただきたい。常に野っ原と土管がある。その両方がその後子供の世界からなくなって行く理由を考えてもらうとわかると思う)と重なった形で育った世代である。あの喪失感は、その後の世代にはたぶんあまり分かってもらえないだろう。しかしまた一方で、焼け野原からから立ち上がって来た大人世代の多くにとっては夢のような時代の到来だというのも想像は出来た訳で。だからこの、複雑な、光と影の両方に引き裂かれた、名前の付けられない感情がいつも底にくすぶっているのは、私達世代特有のものなのかも知れない。だが、こういう中途半端な世代だからこそ、バランスを取って物を見ることができるのもまた事実なのだろう。

 こんな世代だから、高校生当時は、混乱の一方には期待も含まれていた。国としての目標がないのが必ずしもいけない訳ではない。むしろ、社会が物質的に豊かになり、やっとひとりひとりの人間が「個」として、自分のアタマで考え、立ち止まることができる。過去に捨ててしまった何かを取り戻し、そして一方ではより開かれた社会を希求する-高度経済成長とはまた違う枠組、会社と一体になったかのような旧弊としてのメンタリティーから脱し、個として、日本人が新しい一歩を踏み出す、そんなはじまりの時代になるのだろう、そうなったらいいな・・・と。が、そううっすらと思っていた私は甘かった。世界に開かれた新しい日本的価値観の創出も、欧米に比肩する個人が成立して行くこともなかった。自分のアタマで考えることさえついぞなかった。良い年をした大人が、ひたすら集団の空気に乗り、モラルを失い、躁状態のマネーゲームに興じて行っただけだった。その集団的空気の支配というのは、結局は戦争に突入した頃と変わらない、日本人の危険な傾向と言えるものだと警戒する声も、当時あったと記憶している。しかしそれもすぐに虚しくかき消された。


 80年代半ばに大学に入った頃はバブルど真ん中で、そんな日本を見るのは実に虚しく、失望の日々だったと言って良いかも知れない。光り輝いているのに気分はまっ暗闇・・・この時代もやっぱりその矛盾した感情に戸惑うしかない運命だったのだと思う。画家への夢を15才で捨てて以来、芸術的な方面からは距離を置いていた。弟が画塾に通うようになって気にはなりつつも、ジャーナリズムへの興味から、政治学を勉強していた。だがそれも何かしっくり来ず、自分に何ができるのだろうかと、彷徨っていた。世間のバブリーなムードへの怒り、幼稚なビートパンクなどへの不快感は、そんな若さ故の焦燥感も手伝っていたのだろう。こんな社会にこれから無力な自分が入って行くことを考えると、納得がいかない気持ちになったものだった。この40年で、この国は物質的繁栄以外に何を得たのだろう・・・疑問は深まるばかりだった。それを癒してくれたのが、音楽を通じて知った英国社会であり、政治学を勉強して見えて来た英国民主主義の伝統だった訳だ。今の日本の流れは絶対おかしいと、ハタチそこそこのガキがそう感じているにもかかわらず、エエ年をした大人で、ちゃんと警鐘を鳴らす人が見当たらないのは何故なんだ・・・21の幼いアタマで一生厳命考えたからこそ、当時の中曽根政権ブレーンの教授による自民党評価に傾いた書をテキストとした大学の政治学ゼミも投げ出した。そして、サッチャリズムに蹂躙されつつも社会民主主義の伝統の継承の闘いにもがいているように見えた1988年の英国に渡り、生まれ育った国の空気が狂っていること、おかしいことを、自分の五感とアタマで確かめようとした訳だ。で、それが行き着いた先は、絵筆でもなければ政治学でもなく、ギターだった。Penelopesと呼ばれるユニットでの音楽-ノスタルジックで、時にいびつに政治的意見が入ったりする奇妙なツギハギ音楽-の創作になったのだった。だから、Penelopesというのは、まさにバブルに対するわかりやすい反応だったと思う。特に最初の2枚には、その怒りが渦巻いている。


In A Big Golden Cage - The Penelopes (1993)
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Touch the Ground - The Penelopes (1994)
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BGM: English Settlement / XTC (1982)
by penelox | 2007-12-29 12:09 | The Penelopes関連


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